新世界セッション

日記とか、色々。

ガラス瓶のいちばん外側

 

 

僕がよく行っていた図書館がある。

 

僕は昔その図書館で10冊の本を借りて1週間でどれだけ読めるかという遊びをしていた(結局10冊も読めないまま返却するのだけど)。

そこはこじんまりとしたところで、小説のコーナーはほんの少ししかない。そのわりに、市川拓司の小説だけは充実していた。

僕はその図書館にある市川拓司の小説を片っ端から読んで、小川洋子とか江國香織とか中村航とか、そのあたりは後回しにしていて。そのくらい市川拓司の小説が好きになっていた。

 

 

正直、市川拓司の小説にはあまり内容がないと思う。読み終わったらすぐに忘れてしまうような内容の物語は沢山あるけれど(そして僕はそういう本を購入して自分の本棚に置くなんてことは基本的にしない、本棚にあるものは内容を覚えているものがほとんどだ)、なぜか市川拓司の本だけは、忘れてしまうのに好きなのだ。本棚にあるほとんどの本は市川拓司である。

 

それは今でも変わることがなく、既視感を覚えつつ初めましてをするように読むことがある。そしてそれが心地よいのだ。

 

 

なぜなのだろうと考えたときに、僕自身に中身がないからなのかもしれないと思った。

別に自虐的になっているわけではなく(次のことを僕は別にそれでいいと思っているから)、何を語らせても僕は大したことが言えないし、ほんとうに狭い世界しか知らない。20年以上生きてここまで空っぽな人間は居るのかと自分でも疑問に思うほどだ。

だからこそ市川拓司の小説は、その空洞をすぅっと撫でて去っていくように、ガラス瓶のいちばん外側にうつる景色のように、僕にフィットするのかもしれない。

 

 

 

 

自分ってなんだろう、と思うことが増えた。

ほんとうは別に空っぽなわけでもないのかもしれない。見えないだけで。

ただ、いつも誰かが世界の中心にあった僕は、きっと誰よりも人生の主体性に欠けているのだな、と。ありたい自分という軸のために用意していたツールは沢山あるけれど、それはいつだって「誰かの隣に居るためのツール」でもあった。

 

自分のために何かをする、自分を中心に生きる。

 

それは今の僕にとってはとても難しいことなのだけれど、いつかそういう生き方に変わるんだろうか、と思うことがある。そういう前兆に、今はいる気分だ。

 

 

果たして、誰かのために生きていけないことは弱いことなのか。自分のために生きていけないことは弱いことなのか。

 

わからないけれど、別にどちらでもきっと生きていけるから、今は少し、自分を中心に置いた生活というやつに楽しみを見出してみたい。

 

 

いつか僕の世界が、自分の延長線上にみんながいる世界になったとき。僕は市川拓司の小説をどんなふうに読むんだろう。そう思いながら向かった書店で、2冊、手に取った。今日の記録はそんなところだ。