新世界セッション

日記とか、色々。

2020.1.1



6:30頃、寒さに震えながら外に出たら、空がまだ少し深い青を残していた。

私は五等星(天文学に関しては無知なので主観だが)を眺めていた。
煙草2本分の間に、星はこの目では確認できなくなってしまった。
夜の終わり、朝の始まり。私はそれを、ただ眺めていた。

言葉にすると本当になるというならば、ifは心の中だけに留めておこう。そう思いながら。


果たして自分に対する誓約は風化するだろうか、その疑問だけは朝が始まっても残ったけれど、それでいい。



自分の思考の回転や感情の切り替わり、変化等に追いつけないと思うこともあるけれど、少しずつ調律の術を身につけてきている。

それになんだか、それはそれで、楽しいのだ。


今日を始めよう。
いつも通りで、きっとまた目まぐるく楽しい、今日を。

足の裏で、地面の感触をしっかりと確かめながら。



私、プレイヤー辞めねえってよ。


音楽。


プレイヤーを選んだのは、小学生の頃だった。
あの頃は純粋に音楽を楽しんでいた。初めて立ったコンクールのステージは照明のせいかきらきらしていたし、熱かったなあ。

楽器は色々したけれど、ピアノだけはもう少し真面目にやっておけばよかったと後悔している。
実家にあるの、運んでもらおうか、なんて。


ある楽器と出会ったのは中学生の頃だった。
あれは運命的な出会いだった。
とにかく夢中になった。楽しくて仕方がなかった。
朝も昼も夕方も夜も休日も、楽器ばっかやってさ。



それから数年後、挫折ってやつに、私は負けた。
楽器ケースを開けることが怖くなった。
音を出しても、それは出しているだけで。
粗探しばかりして、またケースに戻す。
人前で演奏しようとすると震えが止まらなくて、とても怖かった。全く楽しくなかった。

音楽が嫌いになりそうで怖かった。


今思えば、そんな自分が嫌いになりそうで怖かった、のかもしれない。



少し前にベースを購入したのは、初心に戻りたいとかやり直したいという気持ちもあったからだ。まああの楽器に出会う前も出会ってからも、ベースを弾きたいという気持ちがあったことも事実だが。

購入してからも、始めようとするまでには時間がかかったけれど、触ってみると、基礎練習をしているだけで楽しくて仕方がなくて。

ああ、こんな感じだったな、って。



最近、ベースのケースも開けられなくなってしまった。
楽器は自分の状態をストレートに教えてくれる。
今の私を、知ることが怖くて。

でもそんな恐怖以上に、楽器に触れられるということがどんなに素晴らしいことかは、知っているはずだ。



明日の天気予報は曇りのち晴れ。

もし、出来れば。


公園でベースを弾いてみようか、なんて。



居場所について



いつも身を置く場所、素直になれる場所、癒される場所、楽しくなれる場所、頑張れる場所、バカをやって大笑いする場所、考える場所、思い切り泣ける場所。


どの場所も大事で、〝どの場所にいてもジブンはジブンだ〟と思う。

そしてジブンで居させてくれる場所(それは物理的な場所であったり趣味であったり人であったりする)が、ジブンの周りに沢山あることは本当に有難いのだなと痛感している。


孤独なんて、痛みだけでじゅうぶんだ。
痛みだけは本当に孤独だと、ある文章を読んで再認識した。
どうやっても、痛みだけは孤独だ。


そしてそれを抱いていてもなお歩いていけるのは、やはり沢山の居場所のおかげだと思う。

四六時中希望を見つめ続けると疲れてしまうけれど、走り続けるのも疲れてしまうけれど、仮にそうなっても、ジブンのあらゆる側面を教えてくれる場所がある。


だから今日もきっと生存していける。





ある意味では、どこにも戻れないようにも感じる。
常に斜に構えて全てを否定的かつ悲観的に見ていた自分にも、死だけを見据えていた自分にも、何かを完全に悪とみなして憎んでいた自分にも。


それでも、進むしかないのなら、進むしかないよなと。
空を見上げてしまえば、それは高く広く、風は木々を揺らしているから。


きっと生存していける、と、微笑むことしか出来ないのだ。



噛み殺す



時々、どうしようもなく自暴自棄になりたくなる。


その先に破滅しかなくても、ああもうそれでいいよと投げ出したくなる。そういう時は大抵ジブンのキャパをオーバーしている。どう修正するかが大事だということは理解しているのだけど、頭の中のみで理解していることを実行し続けることは難しい。


やるせない、どうにもならない。
閉塞感と疎外感。
気軽に手放せない希望と気軽に浸れない絶望。


誤魔化して誤魔化して誤魔化して、そういうふうにまたやっていくんだろうとは思う。その誤魔化しもいつまで続くかはわからないけれど。

もう少しだけ音楽を聴いたら眠ろう。絶望しようとしたところでどうせ朝は来るのだから。


さよならアイデンティティ



特別になりたかった。ずっと。


正直努力などしなくてもジブンは特別になれると盲信していた。人並みの能力はあると思うし人並みに努力はしたけれど、そういうものとは別として〝特別な人間になれる〟と盲信することが希望だった。

少し前のこと。
とある詩人のとある連載で「創作をする人は自分を特別だと思っていた時期がある」「私はそれを馬鹿だとか恥だとかは思わない」という旨の文章を読んで救われた。
特別になりたいならそれ相応の努力と結果を求めるべきだ。何もせずに〝特別な人間になれる〟などと盲信しているジブンがとても嫌いだった。ええ、とても。

最近。
ただの何の変哲もない〝特別な人間になれる〟と盲信しているだけのジブンに〝既に特別だ〟と教えてくれる人との出会いがあった。「アナタもじゅうぶんすぎる程に特別なのに」と思った時、そうかと腑に落ちた。



そもそも人間なんて皆違って皆いいわけで、それはもしかすると全員が違った性質等を持つ特別な人間ということなのではないか。



その途端、ジブンはどうしようもなく安堵したと同時に寂しくなってしまった。〝特別な人間になれる〟と盲信すること、それ自体がジブンの一番のアイデンティティだったのだ。
だからジブンはこれまで〝特別な人間になれる〟要素に徹底的にしがみついてきた。離れられなかった。離そうとしなかった。ずっと、ずっとずっとずっと……、

もういいか。と思った。

全てを手放すわけじゃない。〝特別だと盲信すること〟をやめて〝自分は既に特別だ〟ということを受け入れる。それだけだ。


そうやって少しずつ、子供のままで大人のフリを自然と身に付けていくのだろう。まあそれも悪くないのではないか。

どんな形でも、どんな時も、どんな人間であっても、じゅうぶんすぎるほどに特別なのだから。