新世界セッション

日記とか、色々。

無題



大切に出来ないくらいなら誰も要らない、と思っていた。
正確に言うなら、自分の心の扉の鍵は渡さずに、二番目に深いところにだけ居てくれたらいいのに、と。
都合よく他者を欲して、あたかも自己開示をしていますよ、なんて振りをしていた。



そういう自己保身が、どれだけ他者を傷つけてきたのだろうか。ふと、そう思った。
だとすれば、私は自分が傷つくことも何かを失うことも何かを傷つけることも、つまり犠牲も何もかも承知の上で、今まで誰にも渡さなかった鍵を渡すことが、自己保身を貫き通すよりよっぽど大事なのではないか。
もちろん、相手を大切にしたいなら最大限大切にする、その覚悟が必要になる。



私はそろそろ、過去の自分と今の自分を切り離してみてもいいのではないか。
確かに許されることではない、私がしてきたことは。
今の私は〝屍の上に立っている〟、そう思っている。

だからといって、今の私は当時の私と同一だろうか。



おそらくそうではないと思う。
相変わらず不器用だし、自分が大好きだし、大切にしたいものを大切にする方法なんてわかっちゃいない。
それでも、それを理由にずっと心の扉を閉じて引きこもっていることが、果たして私に出来る償いだろうか。
そんなものを求めるひとたちであっただろうか、私が踏み台にしてきたひとたちは。


おそらくそうではないと思う、というより、自分が利用してきたひとたちを死ぬまで最大限有効活用すると決めたのだ、私は。
だから、そうだな、そうでないと、思いたい。

許されるとか許されないとか、屍に訊いたところで仕方がない。
返事などもう返ってこないのだ。
ならば、それは私が決めていい。



〝過去の自分が許せないなら許さなくていい。だけど過去の自分と今の自分は違うはず。切り離して考えることも必要だ〟


〝幸せになれ〟



私はこの言葉をくれたひとからのギアスに対し、「そのギアス、確かに受けとった」そう言った。

そう、言ったのだ。



誰かとしあわせになる、ということを、今の私には許してもいいのかもしれない。
事実、今の私を許せないことで、他者を傷つけ続けている。

本当は、私だってもう、大切なひとと、しあわせに、なりたい。


決まりだね。

さよなら、死ぬまで許さないよ。



拝啓 あの頃の私へ

死に損ない続けて良かった



今日も今日とて盛大に寝坊した。
タスクをこなした後、今日成人式を迎えている人がいることを知り、この2年弱を振り返ってみた。



20歳まで生きている予定などなかった。そもそも。
10代の私は全てを悪だとみなしていたし、当然自分の味方など居ないと思っていた。ガラス越しの少女を除いて。
当時はある目的のために生きていた。そしてその後死ぬつもりだった。
ある精神科医と出会ってからは少しずつ生きることを視野に入れ始めたけれど、それでも目的もその先の予定も変わらなかった。

20歳を迎えた時は絶望した。何一つ、獲得出来ていなかった。何一つ。
ちからがなければただ息をしているだけの屍に過ぎないことを知った。
だから人一倍努力した、治療に関しては、私のペースではあるが、確かに人一倍努力してきた。今だってそうだ、私はちからが欲しい。ひとりで生きていけるちからが。



その中で少しずつ、世界中が雨ではないことを知っていった。間違いを沢山犯した。それでも優しいひとたちがいることを知った。悪だと見なしていたひとも、もう変わってしまったのだということも、知った。
だからもっと頑張った、私が頑張ることで、少しでもと。傲慢かもしれない。それでもだ。



今日、タスクをいくつかこなしてきた。
その後にふと思ったのだ。私は甘えていないか?と。
ちからを得るために他者のちからを借りている、といえばそれだけなのだけど、途端に怖くなった。

私の生き様は、少しくらい筋が通っているだろうか。

いつも頭から離れない。
筋ってなんだ、筋、筋。私は多少はまともになっているのか、教えて欲しい、どうやってだよ。



私にちからを貸してくれているひとたちは、私に少しでも回復して、自分の人生を生きて欲しいと思ってくれている、と思う。

だとすれば私に出来ることは、私に出来ることをすることだ、私が獲得したいものを獲得出来るちからを得ることだ。
感謝の伝え方は、よく、わからないけど、わかるようになりたい。



申し訳ないな、と思う。情けないとも。
こんなふうにしか生きられないこと、迷惑ばかりかけてきたこと。

でも、死に損ね続けて良かった、と思う。
今は無力だけど、先がある、伸び代もある、きっといつか、優しさをひとに伝えられる人間になれる。

それまで皆に、生きていて欲しい。待っていて欲しい。我儘だろうか、それでも、生きていて欲しい。いつか必ず、いつか、ごめんね、ごめんなさい。



慟哭の果てに咲いた華


果たして、本当にあの場所には何も無かっただろうか。情すらも、無かっただろうか。いくら自分に問い続けても、わからない、としか言えない。思うことがないわけじゃない。それでも、わからない、としか言えない。



慟哭の果てに咲いた華が見たい。それだけでじゅうぶんすぎるほどに生きる希望に値するのだけど、それは、それは、無から生み出した不幸に縋っているだけなのだろうか。思うことがないわけじゃない。やはり、わからない、としか言えない。



happy endingじゃないなら泡に、だなんて思わない。happy endingは99.9%訪れない。だから生きている。残り0.1%を盲信して。そもそも私の中であの場所にはendingが無い。過去にも、今にも。きっと未来にも、無い。そんな自分の生き方の側面に、思うことがないわけじゃない。何かコメントをするのであれば、わからない、としか言えない。



幻想オルゴール



わかっていた。本当は。
これはもう行き場のないもので、どうしようもないもので、二度と得られないもので、それでも捨てられなくて、単なる思い出には出来なくて。
頭の中でオルゴールのように大事に保存して、いつもネジを巻いてはオルゴールを流し、流れ込む美化された記憶という幻想に焦がれるだけ。
勝手に癒されて、満たされて、眠って、起きて、頑張って、また幻想のオルゴールへと、叶わない追憶へと、叶わないifへと。勝手に満たされて、現実に戻る。
どこまでも汚いな、と思った。
だからこそ、生きなければいけないのだけど。



2020.1.10



二度寝したら盛大に寝坊した。
ぼんやり煙草を吸いながら、最近鴉が来なくなったな、と思った。結構楽しみにしてたのにな……。



主治医は私をじわじわと攻略してきている。主治医も楽しんでいるようだけど、私も実は楽しんでいる。
今日も見事に攻略を進められた結果、英語の勉強をすることになった。やってみると意外と楽しいが、集中力が切れた時のあの感じが嫌いだ。試しに両の掌で頬をぱちん!と叩いたらスイッチ(というよりレバーのように思える)が戻ったので、続けた。
そろそろ入浴の時間だ。上がってからまた、やるかなあ、どうだろう。

勉強とかっていいな。そのことだけを考えていられるし、頭が空になる。ちゃんと解ければそれだけで嬉しい。本当は褒められたくなるけれど、それは、いい。



最近Zemethのアルバムを聴くことが多い。哀愁、郷愁、そんなメロディと、現実逃避不可性、喪失、そんなスピード感。それらを綜合するシンフォニックなサウンドが暖かく心に染み渡る。
ジャンルでいえば何だろうか、と思い調べてみたらメロディックデスメタル、もしくはハードロックとかなんとか。そもそもメタルとハードロックの違いって何なんだ。というか、確かにメロディは凄いけど、このバンドに「シンフォニック」は必要だろうと個人的に叫びたくなるのだが、まあいいや、メロディとシンフォニーとデスメタルを言葉として上手く組み合わせられそうにはない。
こんなことが書きたかったんだっけ、忘れた。



自分の事は死ぬまで自分だけが知っていたらそれでいいじゃない


本文ナシ



追記(2020.1.13)
本当にね。



追記(2020.5.1)
どうかな。



追記(2020.5.26)
それでも近くに大事なひとがいてくれたら、うれしい。