新世界セッション

日記とか、色々。

日常の片隅に

 

 

私には大事な女の子が居る。

友達なのか、知り合いなのか、元同級生なのか、よくわからないけれど、大事な女の子が居る。

 

何年もずっと、その子と私の関係性は一体なんだろうと考えていた。今回はその話をしようと思う。

 

 

高校が一緒だったその子と私は、在学中はほとんど会話をしたことがなかった。当時の私から見たその子は正直控えめな陽キャという印象だった。まあひとりでお弁当食べてたしね、私。

 

そんな私とその子が仲良くなったのは(私の記憶が正しければだが)、卒業後、SNSを通してだったと思う。今思うとSNS様々である。合掌。

色々とやりとりを重ねたりして、その子と初めてお茶をしたのは高校を卒業した後だった。

 

 

ちなみに私たちは、趣味が合うわけでも、交友関係が似ているわけでも、進学先が同じだったわけでもなんでもない。

強いて言うなら、家庭環境など様々なことを含み、お互いにサバイバーとして生きてきたということが私たちの共通点だった。

 

お茶をしたのは(記憶に自信が無いが)多くても片手で数えられる回数だと思う。私たちはその中で色々な話をした。つらかったことや、高校での他の同級生には理解してもらえないような繊細な部分や、将来の話。とにかく、ぎゅっと濃縮された時間を過ごした。

 

 

そんな日々から数年が経った今、その子とは連絡を取り合うわけでもなく、会うわけでもなく、お互いがお互いの生活をただ送っている。

私はその子と行ったお店に行くたびに、ふとしたときに、その子のことを思い出す。高校という、精神を崩した人から排除される場所で見つけた、たったひとりの、その子のことを。

 

嬉しいことに、時折その子の生活の様子を知る機会がある。日々頑張っているのを見て、元気をもらっている。しあわせなことだと思う。

 

今でも、その子のことを友達と呼ぶべきか、知り合いと呼ぶべきか、元同級生と呼ぶべきか、あるいは同志や仲間とでも呼ぶべきなのかはわからない。

 

 

だけどいつか、「つらかったけど、私たち、がんばったよね」と、そう言いながらまたふたりでお茶を飲む日が来ることを、私は今でも信じている。

 

 

あいまい

 

 

最近、もう「どの自分」にも戻れないのだと実感することが多い。

弱っていたりすると一瞬引きずり戻されるのだけど、基本的に、次の日には今ある日常に戻っている。

 

あれ程特定の人間に自分が見聞きしたものを共有させたがっていたのに、今ではこの眼にうつる景色を独り占めしている方がしあわせだったり、過去やそれに類似するものに焦がれたり引き戻されたりしても、なんとなくしっくりこなかったり。

 

ひとりで生きていける、と言うにはまだ遠いけれど、絶対的な誰かが居なくても生きていけるようになってきている……気がする。

 

 

孤独とか寂しさとか、そういうものを強く感じることが減った。そういう日でも寝たり何かしたり何もしなかったりしていれば次の日になるし、まあ生きていけるなあと思う。

 

焦がれるものと今の自分にマッチするものとのギャップがありすぎるし、「どちらにもなりきれない」し、困ることばかりだけど。

 

そっと胸に閉まっておきたいことが増えた。自分のキャパも少しは増えたのかな、そうだといいな。

 

弱いし、すぐ挫けそうになるし、一進一退の毎日だけれど。この曖昧な変化の過程を楽しめたらいいな。今日の記録はこれにておわり。

 

 

ガラス瓶のいちばん外側

 

 

僕がよく行っていた図書館がある。

 

僕は昔その図書館で10冊の本を借りて1週間でどれだけ読めるかという遊びをしていた(結局10冊も読めないまま返却するのだけど)。

そこはこじんまりとしたところで、小説のコーナーはほんの少ししかない。そのわりに、市川拓司の小説だけは充実していた。

僕はその図書館にある市川拓司の小説を片っ端から読んで、小川洋子とか江國香織とか中村航とか、そのあたりは後回しにしていて。そのくらい市川拓司の小説が好きになっていた。

 

 

正直、市川拓司の小説にはあまり内容がないと思う。読み終わったらすぐに忘れてしまうような内容の物語は沢山あるけれど(そして僕はそういう本を購入して自分の本棚に置くなんてことは基本的にしない、本棚にあるものは内容を覚えているものがほとんどだ)、なぜか市川拓司の本だけは、忘れてしまうのに好きなのだ。本棚にあるほとんどの本は市川拓司である。

 

それは今でも変わることがなく、既視感を覚えつつ初めましてをするように読むことがある。そしてそれが心地よいのだ。

 

 

なぜなのだろうと考えたときに、僕自身に中身がないからなのかもしれないと思った。

別に自虐的になっているわけではなく(次のことを僕は別にそれでいいと思っているから)、何を語らせても僕は大したことが言えないし、ほんとうに狭い世界しか知らない。20年以上生きてここまで空っぽな人間は居るのかと自分でも疑問に思うほどだ。

だからこそ市川拓司の小説は、その空洞をすぅっと撫でて去っていくように、ガラス瓶のいちばん外側にうつる景色のように、僕にフィットするのかもしれない。

 

 

 

 

自分ってなんだろう、と思うことが増えた。

ほんとうは別に空っぽなわけでもないのかもしれない。見えないだけで。

ただ、いつも誰かが世界の中心にあった僕は、きっと誰よりも人生の主体性に欠けているのだな、と。ありたい自分という軸のために用意していたツールは沢山あるけれど、それはいつだって「誰かの隣に居るためのツール」でもあった。

 

自分のために何かをする、自分を中心に生きる。

 

それは今の僕にとってはとても難しいことなのだけれど、いつかそういう生き方に変わるんだろうか、と思うことがある。そういう前兆に、今はいる気分だ。

 

 

果たして、誰かのために生きていけないことは弱いことなのか。自分のために生きていけないことは弱いことなのか。

 

わからないけれど、別にどちらでもきっと生きていけるから、今は少し、自分を中心に置いた生活というやつに楽しみを見出してみたい。

 

 

いつか僕の世界が、自分の延長線上にみんながいる世界になったとき。僕は市川拓司の小説をどんなふうに読むんだろう。そう思いながら向かった書店で、2冊、手に取った。今日の記録はそんなところだ。

 

 

さよなら4月とノスタルジック

 

 

 

Zemethのアルバム「ROUGE NOIR」を聴きながら、病院に向かっていた。

 

 

自宅を出る前辺りにひとつ気づいたことがあった。最近苦しかった理由のひとつは〝自分が何処にも居ない〟感じがするからなのでは、と。

 

おかしな話だ。

少し前まではあれほど、世界の何処でも無い所に行きたかったのに。いつの間に、そんなに生身の人間らしくなっていたのか。

 

 

 

 

 

 

体調はあまり良くはなかったけれど、景色を見る余裕はあった。

 

コンクリートを踏み締める足の裏の感覚まではわからなかったけれど、空を見上げることもなかったけれど。

道端に捨てられた座椅子を見て「お前光合成しすぎだよ、焼けるよ」と話しかけたり、木々や家々をただ眺めたりしていた。

 

 

 

 

 

 

家か。

どんなひとがどんな風に、そこで暮らしているのだろう。何を思いながら、暮らしているのだろう。

 

なんとなく、ふと。

 

誰しも、何も大人になりたくてなっているわけではないのかもしれない。そう思った。

 

なんだそれ、そしたら、誰しもが、子供でいられないことを悟っていって、そうやって何かを諦めながら大人になっているみたいじゃないか。

僕は〝大人〟というものにいいイメージがない。だからこそ、やるせなくなった。

 

 

僕も、そのひとりなんだろうか。

 

鼻の奥がツンとして、喉がきゅっと狭くなる感覚がした。

喪失を得て、さよならばかりで、そうやって、生きていくのか。そうして空いたものは、空洞はそのままに。

 

 

 

 

 

 

ヘッドホンからは、Zemethのノスタルジックなサウンドが流れていた。

 

 

せめて帰り道は、空を見れたらいいなあ。

 

世界の何処でも無い何かを求めていた僕は、少し大人になってしまったのかもしれない。

 

 

 

ぼくは頭の中に宇宙が広がるのを感じた

 

 

それは今日、唐突にやってきた、とても衝撃的な体験だった。

 

 

 

 

人間の生存本能は馬鹿に出来ないな、と絶望しながら嬉しく思う。

昨夜はあんなに終わろうとしていたのに、今ではトランペットに心酔している。

 

わたしは夜が怖い。

「こんなに頑張っているのにどうして誰も物理的に隣に居ないのだろう」と思ってしまう。不思議なことに朝になるとすっと安心して眠れるのだけど、やはり夜は怖い。

昨日は酒でも誤魔化せなくて、正直飛ぼうとした。逆さまに見た星も濃紺も街明かりも、あまりにも綺麗だったから、そのまま終われると感動さえ覚えた。

 

恋人さんから通話がかかってきて、迷った末に出た。ぐだぐだ傷つけてしまったのは本当にわたしの落ち度なのだけれど、そのぶん彼を甘やかす達人になろうと思っている。

 

〝僕はずっとあなたの味方ですよ〟

 

そう言われた瞬間、久々に声を上げて泣いた。色んなことを思いながら、何度もごめんなさいとつぶやいて。

恋人さんによると、人間は緊張していると泣けないらしい。なるほど、と僕は思った。

 

僕は、泣きたかっただけなのかもしれない。

そして僕は、わたしは、そのことばを次の日になっても忘れることはなかった。

 

 

 

 

恋人さんが寝たのを確認してから、なんとなく「響け!ユーフォニアム」が観たくなった。

 

以前観たときは自殺行為そのもので、でも今回は違った。過去を悼みながら観ていた。

どうして忘れていたのだろう、そんな記憶の連続だった。

 

当時寄り添えなかった親友は、オーボエをまだ好きでいられているのだろうか。知っている時期は、すっかり遠ざかっていたけれど。楽器自体が繊細すぎて価格は凄いし、自費で買うのは大変だよなあ。

 

わたしは彼女のオーボエが好きで、そして彼女は僕のトランペットが好きだった。互いのことも。

わたしは吹奏楽が好きで、だからどんなことがあっても続けていたし、いい意味でまだ諦められずにいる。

わたしにとってトランペットとの出会いは心臓が息を吹いた瞬間で、はじめての居場所だった、存在証明でもあった。

わたしはトランペットでなら、風になってどこまでも行けた。世界の外まで行けた。

わたしはトランペットでなら、どこまでも飛べていた。

 

そんなことを、思い出していた。

 

 

 

 

堪らなく吹きたくて、でも、怖い。何故だろう。自分の粗探しを始めてしまうから?自分の音が嫌いだから?

そう考えたとき、ふとこの間あるひとに自分が言ったことばを思い出した。

 

〝自分のいちばん近くにあって、苦しくても好きで、発散できるものでもあって、居場所でもあって。そういう本当に好きなものなら尚更、誰に何を言われても、自分だけは否定しちゃいけないよ。抱き締めてあげて。わからなくなったら、私が抱き締めるから〟

 

完全にブーメランである。

しかしやはり怖いものは怖い。「この」吹きたいという衝動が消えないうちにと、支度をしていても、怖い。

ふと、恋人さんのことばを思い出した。ずっとあなたの味方ですよ、という。

 

もし、もし僕が自分の音でさえも聞くに耐えないと思ったとしても、僕が僕を受け入れられなくとも、きっとこのひとは受け入れてくれるのではないか。

そう思うと少し楽しみになってきた。僕が、何を感じるのか。

 

 

 

 

川原に着いてから、軽く音出しをした。

俺の音を聴け!と思いながら音を響かせるのはこんなにも難しかったんだなと、過去の自分に感動するなどもした。

曲は、「オーディナリー・マーチ」から始まって、「ふるさと」を吹いたときにちょうど雨が降って中止になった。

世界とリンクする感覚は掴めなかったし、音などを意識すると、俺の音を聴け!が薄れてしまう。けれど、今のわたしにあったのは、それ以外の、もっと暖かいなにかでもあった気がした。

 

色々と感覚的に掴めないし、出来ることも出来なくなっている。それが楽しい。

ああ、また「こういうふうに」好きになれた。

今日はそれだけで大収穫だと思った。

 

ラーメンを食べて帰宅した後、安心したのかぐっすり眠ってしまった。

 

 

 

 

起きてから、同じく寝不足であろう恋人さんと、吹奏楽のことを真っ先に考えた。

とりあえず恋人さんと通話したところ、なんと風邪っぽいらしい。困るので早く回復して欲しい。某ウイルスでないことを願うのみだ。看病できる距離ならば、すぐに駆けつけられるのに。

 

恋人さんとの通話で、わたしは半ば上の空でもあった。トランペットのことが、吹奏楽のことが離れなかった。夜の11時。今からやれるのは基礎体力作り、何がやれることは、と。

 

あれだけ夜が怖かったのに、いや、今でも怖いけれど、そんな地中海での航海を、どこか楽しんでいるわたしがいた。

今日はもう寝ようと思う、と恋人さんが言うので、僕は大事をとってもらうためにも自分のためにも(笑)、それをお願いした。

「寂しくさせてごめんね」と言う彼に、僕は反射的にこう言っていた。

 

「いや、意外なことに全く寂しくないんだよね」

「いや少しは寂しくなってよ!?」

 

ごめんね。結果としては意外と寂しかった。だけどそれも、楽しい。

 

 

 

 

わたしは今やれるメニューを考えた。

呼吸法→筋弛緩法→呼吸法→体幹ストレッチ→筋トレ→呼吸法

1時間半弱、ノートにあれこれ書きながら行った。こんなふうに基礎を楽しめるのが醍醐味なのだ、嬉しくて仕方がなかった。

 

それは体幹ストレッチをしているときだった。

楽器を吹いている訳では無いのに、不意に訪れたのだ。

 

 

頭の中に、宇宙が広がった。それは止まらなかった。

 

 

これはなに、表象幻視とかそんなレベルじゃない。

全てが一体化した瞬間に、それは強く起こる。全身が、もっと大きな何かが、忘れてはいけないと叫んでいる。わたしは泣きながら、ノートにもTwitterにも書き込んだのだった。

 

 

 

 

1時間半弱。

残念ながら筋トレは特にぼろぼろだった。なにしろ、腕立て伏せの記録が2回。

あれだけやっていたのに!

 

けれど、明日やることもまだ掴みたいことも沢山あって、それがうれしくてたまらなかった。

入浴はゆっくり行おう、明日は確実に筋肉痛だから。そんな配慮は出来ても、ヤニカスなのは変わらないらしく、トランペットのために喫煙量を減らした方が……と考えたが、それは別問題ということになってしまった。

 

 

 

 

トランスしているなあ、と思う。それから、その裏には耐え難いほどの恐怖がある。

 

〝もしまた、「こういうふうに」吹けなくなったら〟

 

そんな恐怖に駆られつつ、このブログを湯船に浸かりながら書いている。風呂場には、東京佼成ウインドオーケストラのアルバム「指輪物語」が響いている。

 

 

それに、相変わらず夜が怖い。けれど、なんだか安心もしていた。

 

 

 

 

トランペットが吹けなくて、その屈折し続けた愛の反動は大きすぎた。5年も、自分の心臓に血液が届かなかった。つまり心酔できなかったのだ。

まあ、心酔できないのも当たり前の話なのだけれど。出会った時に、運命は決まっていた。

 

だからあらゆる創作的なことに手をつけた、どれにも心酔できなくて苦しかった。けれどそれらは、今でも変わらず大事な居場所でもあって、なくなっては困るものだ。

 

例えるなら、トランペットが心臓で、執筆等は息をすることに似ている。

 

 

相変わらず、色々なことが怖い。怖くて怖くて堪らない。けれど、なんだかそれが楽しい。

なにもまちがってなかった。それも事実で、その証明をしているのもうれしい。

 

 

なんならトラウマ治療、PEだって怖くても大丈夫な気がする。こう思ってしまうのだ。

 

 

 

僕は、ぼくは、私は、わたしは、こいつとどこまで心中出来るのだろうか、と。

頭の中の宇宙は、きっと消えないし、広がることをやめないから。

 

 

しみじみ教 day2



帰り道。
以前の僕、否、〝僕ら〟に思いを馳せていた。
ぼんやりと、地図を見ないと自宅にすら辿り着けないくせに、それもせず。
いつの間にか、あの〝僕ら〟に思いを馳せることも忘れて、歩いていた。ただ、ぼんやりと。



白い犬に会った。
一軒家の庭のフェンス越しに、僕に向かってめちゃくちゃ吠えていた。内心ビビりながら、おまえはこの家を守っているのか?と心の中で語りかけた。それは自然な行為なのか、それとも刷り込みなのか。それをしていておまえは苦しくないのか。僕にはわからなかった。
それからしばらくして、頼りなさげな白い毛を思い出した。寒くないのかなと少し心配になった。


おばあさんと花に会った。
おばあさんは片手に3輪の黄色い花を持って、僕とは反対方向にゆっくりと歩いていた。その花は食卓に飾られるのだろうか。それとも手向けられるのだろうか。
おばあさんは、どんな気持ちで、どんなふうに、その花を摘んだのだろうか。無事におばあさんが家まで帰ったとして、その家は暖かいだろうか。
あたたかいといいな、と思った。


散歩をする女性と黒い犬に会った。
リードで繋がれたその犬に、リードで繋がれているのは苦しくないのか?と心の中で語りかけた。ちゃんと大切にされているのか、愛されているのか、心配になった。
女性に、リードで繋ぐのは愛ゆえですか?それとも面倒だからですか?と心の中で語りかけた。女性には家族が居るのだろうか。居るにしても居ないにしても、どんなふうにその犬を迎え入れたのだろうか。
愛があるといいな。ほんとうに、そう思った。


コインランドリーに会った。
それだけで泣きそうになった。また来るよとだけ心の中で語りかけた。おまえはいつも僕を優しく包んで安心させてくれるね。おかげでおまえの前では泣いてばかりだよ。でもいつも助けられてる。ありがとうね。
おまえにも、おまえを優しく包んでくれる存在は居るのかな、居たらいいな、この町とか。半ば祈りながら、そう思った。


急な下り坂も、自動販売機も、看板も、道路も、その時々の場所から見える景色も、たしかにそこに居た。
僕はただぼんやりと、少しだけしみじみと、歩き続けた。



意外なことに、勘で自宅まで辿り着いた。
だいぶ遠回りをしたみたいだけれど、それはそれでいい気もした。

玄関で靴を脱いで、ああゴミ出しをしなきゃと思いながら、鍵をいつもの場所に置いて、暖房をつけた。
コートを掛けて、ポケットの中身をいつもの場所に置いて、手洗いうがいをしてから、気づいた。
そうだった。


「ただいま」──「おかえり」


僕の他に住人は居ない。僕の居場所に、家に、そう言って力なく笑った。

家という場所に安心してただいまとおかえりを言えるというのは、やっぱりとても、幸福なことなのだ。
そんな大事なことすら忘れてしまうほどに、最近は切羽詰まっていたんだなあ。

そんな僕をいつもあたたかく迎え入れて、見守ってくれているこの家に、心からありがとうと言える人間になりたい、そう思った。



お布団はやはり素晴らしい。
ふかふかで、気持ちよくて。そして僕はこのお布団にだけでなく、この家にも世界にもみんなにも、見守ってもらっている。

チュッパチャプスのラムネ味は幼い頃に好きだった味のひとつで、こんな味だったっけ、なんてことを思いながら、しみじみと、なんかあったかいなあと思った。


こういうのも、〝しあわせ〟と呼ぶのかな、と。



しみじみ教 day1



煙草がやけに染みる。ミルクティーを切らしてしまったことをだいぶ悔やみながら、Aimerの楽曲に耳を傾けつつ、感じ取れるすべてのものにしみじみしたり、考えたりしている。



恋と愛は違ったのか。
20年以上生きて、そんなことを最近実感として知った。
念の為補足しておくが、お付き合いをしている人は居ない。しかし大事なのは形式ではなく繋がりだ。

素直、切実、誠実、罪悪感、義務感、逃避、約束、向き合うこと。決断は状況的に今下すべきではない。


頭の片隅に漂っているものを知っていながら、自分の中の見たくないものを見なかった。
全て、そういう生き方をしてきた結果だ。

見てしまったら、それを抱き締める他に選択肢がない。変わるしか、ない。というよりもう見てしまったのだから、つまりは、そういうことだ。



筋、筋って、なんだ。
何が必要なんだ。
僕は今、また全力で自己保身をしている。

そういうところだよ。


煙草の煙が染みるね。



「良い夢を」という、ゆっくり眠ってねという意のことばが、実は苦手だ。

理由は単純明快、僕は翌朝起きると夜に見た夢の内容を全て覚えているからだ。悪夢でも。
最近は夢の続きを見ることも、夢の内容を覚えていることも、夢を見ること自体もなくなっていた。さっき気づいたのだけれど。
まあそんなわけで、ひとには「良い夢を」とは言えないので、穏やかな夜を、と言うようにしている。


僕はそういう言い方しか出来ないのだけど、なんとなく。

なんとなく。


今日くらいは、せめて。
十字架のない、素直で、無邪気で、切実な……。
そんな、幸福な夢を、見てみたい。
ほんとうに、そう思った。
しみじみと、ほんとうに。